真空溶媒

「春と修羅」 真空溶媒 小岩井農場 グランド電柱 東岩手火山
無声慟哭 オホーツク挽歌 8 9 10

真空溶媒
  (Eine Phantasie im Morgen)

融銅はまだ眩めかず
白いハロウも燃えたたず
地平線ばかり明るくなつたり陰つたり
はんぶん溶けたり澱んだり
しきりにさつきからゆれてゐる
おれは新しくてパリパリの
銀杏なみきをくぐつてゆく
その一本の水平なえだに
りつぱな硝子のわかものが
もうたいてい三角にかはつて
あおらをすきとほしてぶらさがつてゐる
けれどもこれはもちろん
そんなにふしぎなことでもない
おれはやつぱり口笛をふいて
大またにあるいてゆくだけだ
いてふの葉ならみんな青い
冴えかへつてふるへてゐる
いまやそこらはalcohol瓶のなかのけしき
白い輝雲のあちこちが切れて
あの永遠の海蒼がのぞきでてゐる
それから新鮮なそらの海鼠の匂
ところがおれはあんまりステツキをふりすぎた
こんなににはかに木がなくなつて
眩い芝生がいつぱいいつぱいにひらけるのは
さうとも 銀杏並樹なら
もう二哩もうしろになり
野の緑青の縞のなかで
あさの連兵をやつてゐる
うらうら湧きあがる
昧爽のよろこび
水ひばりも啼いている
そのすきとほつたきれいななみは
そらのぜんたいにさへ
かなりの影きやうをあたへるのだ
すなわち雲がだんだんあをい虚空に融けて
たうとういまは
ころころまるめられたパラフヰンの団子になつて
ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ
地平線はしきりにゆすれ
むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が
うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて
あるいてゐることはじつに明らかだ
 (やあ こんにちは)
 (いや いゝおてんきですな)
 (どちらへ ごさんぽですか
  なるほど ふんふん ときにさくじつ
  ゾンネンタールが没くなつたさうですが
  おききでしたか)
 (いいえ ちつとも
  ゾンネンタールと はてな)
 (りんごが中つたのださうです)
 (りんご ああ なるほど
  それはあすこにみえるりんごでせう)
はるかに堪へる花紺青の地面から
その金いろの苹果の樹が
もくりもくりと延びだしてゐる
 (金皮のまゝたべたのです)
 (そいつはおきのどくでした
  はやく王水をのませたらよかつたでせう)
 (王水 口でわつてですか
  ふんふん なるほど)
 (いや王水はいけません
  やつぱりいけません
  死ぬよりしかたなかつたでせう
  うんめいですな
  せつりですな
  あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)
 (えゝえゝ もうごくごく遠いしんるゐで)
いつたいなにをふざけてゐるのだ
みろ その馬ぐらゐあつた白犬が
はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて
いまではやつと南京鼠のくらゐにしか見えない
 (あ わたくしの犬はにげました)
 (追ひかけてもだめでせう)
 (いや あれは高価いのです
  おさへなくてはなりません
  さよなら)
苹果の樹がむやみにふえた
おまけにのびた
おれなどには石炭紀の鱗木のしたの
ただいつぴくの蟻でしかない
犬も紳士もよくはしつたもんだ
東のそらが苹果林のあしなみに
いつぱい琥珀がはつてゐる
そこからかすかな苦扁の匂がくる
すつかり荒んだひるまになつた
どうだこの天頂の遠いこと
このものすごいそらのふち
愉快な雲雀もとうに吸ひこまれてしまつた
かあいさうにおの無窮遠の
つめたい板の間にへたばつて
痩せた肩をぷるぷるしているにちがひない
もう冗談ではなくなつた
画かきどものすさまじい幽霊が
すばやくそこらをはせぬけるし
雲はみんなリチウムの紅い炎焔をあげる
それからけはしいほかりのゆきき
くさはみな褐藻類にかはられた
こここそわびしい雲の焼け野原
風のヂグザグや黄いろの渦
そらがせはしくひるがへる
なんといふとげとげしたさびしさだ
 (どうなさいました 牧師さん)
あんまりせいが高すぎるよ
 (ご病気ですか
  たいへんお顔いろがわるいやうです)
 (いやありがたう
  べつだんどうもありません
  あなたはどなたですか)
 (わたくしは保安掛かりです)
いやに四かくな背嚢だ
そのなかに苦味丁幾や硼酸や
いろいろはひつてゐるんだな
 (さうですか
  今日なんかおつとめも大へんでせう)
 (ありがたう
  いま途中で行き倒れがありましてな)
 (どんなひとですか)
 (りつぱな紳士です)
 (はなのあかいひとでせう)
 (さうです)
 (犬はつかまつてゐましたか)
 (臨終にさういつてゐましたがね
  犬はもう十五哩もむかふでせう
  じつにいゝ犬でした)
 (ではあのひとはもう死にましたか)
 (いゝ露がおりればなほります
  まあちょつと黄いろな時間だけの仮死ですな
  ううひどい風だ まゐつちまふ)
まつたくひどいかぜだ
たふれてしまひさうだ
沙漠でくされた駝鳥の卵
たしかに硫化水素ははひつてゐるし
ほかに無水亜硫酸
つまりこれはあそらからの瓦斯の気流に二つある
しようとつして渦になつて硫黄華ができる
    気流に二つあつて硫黄華ができる
          気流に二つあつて硫黄華ができる
 (しつかりなさい しつかり
  もしもし しつかりなさい
  たうたう参つてしまつたな
  たしかにまゐつた
  そんならひとつお時計をちやうだいしまうかな)
おれのかくしに手を入れるのは
なにがいつたい保安掛かりだ
必要がない どなつてやらうか
         どなつてやらうか
            どなつてやらうか
               どなつ・・・・・・
水が落ちてゐる
ありがたい有り難い神はほめられよ 雨だ
悪い瓦斯はみんな溶けろ
 (しつかりなさい しつかり
  もう大丈夫です)
何が大丈夫だ おれははね起きる
 (だまれ きさま
  黄いろな磁化案の追剝め
  飄然たるテナルデイ軍曹だ
  きさま
  あんまりひとをばかにするな
  保安係とはなんだ きさま)
いゝ気味だ ひどくしよげてしまつた
ちゞまつてしまつたちひさくなつてしまつた
ひからびてしまつた
四角な背嚢ばかりのこり
たゞ一かけの泥炭になつた
ざまを見ろじつに醜い泥炭なのだぞ
背嚢なんかなにを入れてあるのだ
保安掛かり じつにかあいさうです
カムチヤツカのカニの缶詰と
陸稲の種子がひとふくろ
ぬれた大きな靴が片つ方
それと赤鼻紳士の金鎖
どうでもいゝ 実にいゝ空気だ
ほんたうに液体のやうな空気だ
 (ウーイ 神はほめられよ
  みちからのたたふべきかな
  ウーイ いゝ空気だ)
そらの澄明 すべてのごみはみな洗はれて
ひかりはすこしもとまらない
だからあんなにまつくらだ
太陽がくらくらまはつてゐるにもかゝはらず
おれは数しれぬほしのまたたきを見る
ことにもしろいマジエラン星雲
葉はみな葉緑素を恢復し
葡萄糖を含む月光液は
もうよろこびの脈さへうつ
泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる
 (もしもし 牧師さん
  あの馳せ出した雲をごらんなさい
  まるで天の競馬のサラアブレツトです)
 (うん きれいだな
  雲だ 競馬だ
  天のサラアブレツトだ 雲だ)
あらゆる変幻の色彩を示し
・・・・・・もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気になり
零下二千度の真空溶媒のなかに
すつととられて消えてしまふ
それどこでない おれのステツキは
いつたいどこへ行つたのだ
上着もいつかなくなつてゐる
チョツキはたつたいま消えて行つた
恐るべくかなしむべき真空溶媒は
こんどはおれに働き出した
まるで熊の胃袋のなかだ
それでもどうせ質量不変の定律だから
べつにどうにもなつてゐない
といつたところでおれといふ
この明らかな牧師の意識から
ぐんぐんものが消えて行くとは情ない
 (いやあ 奇遇ですな)
 (おお 赤鼻紳士
  たうとう犬がおつかまりでしたな)
 (ありがたう しかるに
  あなたは一体どうなすつたのです)
 (上着をなくして大へん寒いのです)
 (なるほど はてな
  あなたの上着はそれでせう)
 (どれですか)
 (あなたは着ておいでになるその上着)
 (なるほど ははあ
  真空のちょつとした奇術ですな)
 (えゝ さうですとも
  ところがどうもをかしい
  それはわたしの金鎖ですがね)
 (えゝどうせその泥炭の保安掛かりの作用です)
 (ははあ 泥炭のちよつとした奇術ですな)
 (さうですとも
  犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)
 (なあにいつものことです)
 (大きなもんですな)
 (これは北極犬です)
 (馬の代りには使へないんですか)
 (使へますとも どうです
  お召しなさいませんか)
 (どうもありがたう
  そんなら拝借しますかな)
 (さあどうぞ)
おれはたしかに
その北極犬のせなかにまたがり
犬神のやうに東へ歩き出す
まばゆい緑のしばくさだ
おれたちの影は青い沙漠旅行
そしてそこはさつきの銀杏の並樹
こんな華奢な水平な枝に
硝子のりつぱなわかものが
すつかり三角になつてぶらさがる

     (一九二二、五、一八)

蠕虫舞手

 (えゝ 水ゾルですよ
  おぼろな寒天の液ですよ)
日は黄金の薔薇
赤いちひさな蠕虫が
水とほかりをからだにまとひ
ひとりでをどりをやつてゐる
 (えゝ 8(エイト)γ(ガムマア)ι(イー)6(スイツクス)α(アルフア)
  ことにもアラベスクの飾り文字)
羽むしの死骸
いちゑのかれ葉
真珠の泡に
ちぎれたこけの花軸など
 (ナチラナトラのひいさまは
  いまみづ底のみかげのうへに
  黄いろなかげとおふたりで
  せつかくをどつてゐられます
  いゝえ けれども すぐでせう
  まもなく浮いておいででせう)
赤い蠕虫舞手は
とがつた二つの耳を持ち
燐光珊瑚の環節に
正しく飾る真珠のぼたん
くるりくるりと廻つてゐます
 (えゝ 8(エイト)γ(ガムマア)ι(イー)6(スイツクス)α(アルフア)
  ことにもアラベスクの飾り文字)
背中きらきら燦いて
ちからいつぱいまはりはするが
真珠もじつはまがひもの
ガラスどころか空気だま
 (いゝえ それでも
  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
  ことにもアラベスクの飾り文字)
水晶体や鞏膜の
オペラグラスにのぞかれて
をどつてゐるといはれても
真珠の泡を苦にするのなら
おまへもさつぱりらくぢやない
   それに日が雲に入つたし
   わたしは石に座つてしびれが切れたし
   水底の黒い木片は毛虫か海鼠のやうだしさ
   それに第一おまへのかたちは見えないし
   ほんとに溶けてしまつたのやら
それともみんなはじめから
おぼろに青い夢だやら
  (いゝえ あすこにおいでです おいでです
   ひいさま いらつしやいます
   8(エイト)γ(ガムマア)ι(イー)6(スイツクス)α(アルフア)
   ことにもアラベスクの飾り文字)
ふん 水はおぼろで
ひかりは惑ひ
虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字かい
   ハツハツハ
  (はい まつたくそれにちがひません
   エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)
   (一九二二、五、二〇)

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